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2011/01/05 (水)

[ニッキ] ハーバード白熱教室

http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/116622.html

NHK DVD ハーバード白熱教室
http://www.universalmusicworld.jp/hakunetsu/


マイケル・サンデル先生の、白熱教室を読んでいるわけですよ。
ヒヨッコのワタシャ、Justiceの原書なんて恐ろしくて読めませんよ。
というか、英語のレトリックで躓いて、多分理論遊びまでたどり着かない…

というわけで、日本語版(しかも簡単な白熱教室の方)を読んでいる訳ですが。

まぁ今さらですけどね。
でも、世の中で流行ってるからって別に読む気になる訳じゃないので。
アンチメジャーな人間、それがオレ。という。汗

サンデル教授が投げかける問いっていうのが、やっぱり理論と帰着点をちゃんと見つけてる人の話しぶりというか、途中脱線もしてたり、完全な情報を与えずして学生に問いをぶつけたりしてるんだけど、それでもハーバードの学生はやっぱりエリートっつーか、自分でその行間を読んで、なおかつ3歩くらい先を読んで問答をしていくんだな。その辺のやり取りを見るだけでも、ああ、なんつーか、この人達はやっぱり1を聞いて10を自分で見つけていく人たちだなぁ(=やっぱエリートね)と言うのを実感するし、例えるならば、って別に例えんでええけど、テレビアニメのドラゴンボールの「シュビン!シュビン!」って音だけ聞こえてて悟空とかが超高速で移動してるけど俺らには認知できない、みたいなそんなやり取りを目の前で見せられてるような、そんな錯覚を受けましたけど、まぁ自分も一応読んで理解できてるからいいのかなぁとか思いながら読み進めてみたり。
まぁ、テニプリみたいなね。取れない殺人サーブ打つみたいな。

それはいいとして、なんつーかなぁ、「正義って何?」「政府の役割って何?」「最大多数の最大幸福(功利主義)ってアリなのナシなの?」みたいな話がわんさか出てきて、今まで日本人には見えないように隠されてきた部分にメリケンの方からメスを入れられてるんで、正直「これは思考ゲーム。」と思わないとなかなか素直になれないって所もあるんですが、やっぱり微妙に(というか大胆に)アメリカ人的考え方と日本人的考えって根本の部分で大きく違うんじゃないかなぁと感じてしまう次第。

簡単にオレの言葉で合ってるかどうかは分からないけどまとめてみるが。

まず最大多数の最大幸福ってのは、絶対ではない、と。いわゆる功利主義で、例えば漂流してる4人が、3人が助かるために1人を殺して食べちゃった、っていうのは正義なの?っていう問いとかが出てくるんだけど、
 ・人間の命を奪うことはそもそも普遍的に許されないことだからダメだ
 ・殺される人の同意がないからダメだ
 ・一番弱ってるヤツを残り3人で勝手に決めて殺すのは一方的でダメだ
 ・極限状態で生き残るためには認められる行為だ
 ・殺されたヤツは孤児で誰も悲しまないが残り3人には家族がいたししょうがない
とかいろんな意見が出てくるわけだ。

どの意見もよく分かるし、否定する気はない。でも、真っ先にオレが思ったことは「誰にとっての正義か」っていうスポットライトの当て方が、いかにも雑じゃありませんか、ってコトだ。

ある一方での正義は、それと対抗するモノの前では悪にはならないだろうか。
例えば、殺した3人にとっては生き延びるための正義であっても、殺されてしまった1人にとっては、生き延びるのに利用された悪でしかない。それを、どの立場から考えて正義の話をしたかったのだろうか。授業ではうまくまとめて(あるいはまとめずに)進めてしまっているけれども、この問いを一切触れずに正義とは何かについて語るというのは、それこそ正義という言葉の持つ曖昧さをさらに曖昧にしたままで分かった気にさせる危険な行為なのではないだろうか。

一体、誰の考える正義だったのか。
 ・生き延びた3人にとってか
 ・悲劇の当事者4人にとってか
 ・その当事者を含むその社会にとってか
 ・その時の世界全体にとってか
 ・現代のこの講義が行われている部屋の中でか
 ・それとも普遍的にか
と、そのスコープだけでもとんでもない差がある。生き延びた3人にとってなのか、それとも普遍性を求めているのか、そのあたりがぼんやりしたままでは、正義もクソもないだろう、と思うのはオレだけなのだろうか。

それでも、ハーバードの学生達の議論は続いていく。これを一概に頭がいいとはオレは思わないけれども、仮説・検証を自ら構築していく編集能力の高さはやっぱりすごいと思うし、そこから必要な要点をピックアップして授業の本筋につなげるサンデル教授はすごいと思う。もし自分が同じような授業をしてみろといわれても、おそらくレジュメに書いてある内容を1から順番に説明して終わりだろう。ここまで有機的にディスカッションと説明内容が融合している授業というのは、なかなか無いはずだ。

逆に言えば、そのあたりが明確でなくても、自分でそれを設定し、仮説検証までを組み立てて行ける力が学生達にあるのであり、抽象化からの普遍性の抽出をサンデル教授がねらっているとしたら、我々が捉えられない次元での高度なディスカッションだと言わざるを得ない。そのへんはどうなんだろう、と思いつつ。

というわけで、功利主義ではイマイチ、ということもあれば、個々がそれぞれの権利をきちんと行使できるような世界であれば、正義なのかしら?ということで、話はリバタリアン(自由原理主義者)へと移っていく。ジョン・ロックの思想に縛られているという匂いのする彼らの考え方は、自分たちが儲けた金が、高額だから・再配分すればより全体の幸福につながるからという理由で、ごっそり取られるのが気にくわない、と。政府が高額と再配分を理由にして儲けを奪っていくのは、つまり働いてもそのお金が政府に取られてしまうということであり、一歩進めて言えば、政府が高額所得者にタダ働きせよと言っているのと同義になってしまう、と。つまり、高額所得者は政府の奴隷として無償で働けと言うのを、公に堂々と正義と言い張ってやることは全く持って正義ではない、ということを主張する訳だ。

この辺も、正義が誰にとっての正義かっていうのが非常に不明確で、サンデル教授のアプローチはやっぱり客観的というか、個人(1人の人間)が持つ権利であるとか、それを尊重する理由は何かとか、そういう「哲学的」な所に終始してるんだよな…。哲学の授業だから、といえばそれまでなんだけれども、やっぱり「政治学」も大事なんだから、この辺は少し尚早でもいいから、「政府は誰のための政府?」という問いについて、スタンスを明確にしても良いんじゃないかと思った。

というのは、自分の考えとしては、「政府あってこその社会秩序であり、その社会秩序の上でビジネスやってるんだから、それ相応の金は払えや。」というのが根本にあるなぁと思ったわけで。それを個人の権利にまで降ろしてしまうよりも、集団社会の中での個人の権利や、もっといってしまえば法人としての権利、といったところに話を持ってった方がオレとしては分かり易いんだけどなぁと思いながら読んでたけど、あんまりそこに対してはツッコミが無くて、先ほどのリバタリアン(自由原理主義者)の話に終始してたのがもったいないなぁとか思った次第。

モノの「所有」という概念は、元からあるモノに囲い込みをして、加工など手を加えた人間が所有を主張してイイというのがロックの根底にあって、だったらアメリカは原住民が所有してたんとちゃうんかい!?…いや、それは開拓者達が持っていた所有の概念とは違っていた、とか、そんな話が続いてしまったりする。ロックが考えるところの政府とは、その所有の権利を明確にし、それを保証するような機関であるという「最小限の機能しか持たない組織」のような意味合いが強かったとか、そんなんがツラツラと書いてあるわけで。

ただし、そのあとにロックは自分自身でごちゃごちゃになるようなことをつなげて書いていて、ただし所有の権利は、人間が生まれながらにして持っている自然的権利には勝てないからね。と。人間はみな平等で、他の人の生命を奪ったりとか出来ないし、その自然の権利は捨てられないからね、といいつつ、さらにその後に、所有の概念や権利は、人間が所属するグループ内でどうするか決めて、そのルールに従わなければいけなくて、政府とかが権力で所有権をねじ曲げるとかそんなんはダメだからね、という風につながるのだ。じゃぁ政府が持つ所有の保証機関て何やねん、と。結局はそのへんの決定的な効力を生み出すのは、グループ内での「同意」であり、政府ではない、と。この同意をいかにして同意があったのかを認知し合うのがグループの役目で、そのグループが社会的に存在し続けるためのバックヤードが政府的なものである、と。(そういう認識で私は読んでるんだけど、この辺曖昧だったりする。)

でもまぁ、例えそうだとしても、結局リバタリアンは、そういったシステムの上にあぐらをかいているのであって、政府側からみれば、何らかの力をうまく利用してお金を沢山集めるシステムを持っている存在に過ぎないのではないかと思うわけで。だったら、システム利用の程度に応じて、よりリターンしてくれてもええんとちゃう?というのが政府の思いなのではないだろうか。それで政府が社会のワークフレームを保たせておいて、そのフレームの中でリバタリアンが自由に活動しよりお金を得るのであれば、原理的にはそれほど不都合がないというか、ギブ&テイクだと思うのだが、どうなんだろうか。

おそらく、正義という概念で物を見ようとすると、そのギブ&テイクというアプローチそのものがマズいのではないかと思うが。ここは譲ってこっちは確保して、みたいなどっちつかずのやり方は、原理なんてモノは通用しないと思う。どっちかがある程度折れてるという時点で、不釣り合いがあるのは当然だと思うし、不釣り合いがあるところに易々と正義が成り立つなんて考え方は、なかなか難しい。ある程度儲けてんだからその分払いなさいよ。それが社会においての正義でしょ。なんて、言えるわけがない。

ここでも結局、誰にとっての正義なのかがよくわかんないんだよなぁ。おそらく、より普遍的な、一般的な正義を見つけ出そう、現状や過去の論争と比べてみよう、というのがサンデル教授のアプローチだから、その辺明確に出来ないっちゃー出来ないんだろうが。

で、その後にカントの話に進んでいくんだけど、これもまためんどくさい話で、カントの考える正義とは、自律主義でないといかん、と。他律ではダメだよ、と。つまり、私利私欲などの為に何かやってるようじゃ、それは正義ではないよ、と。人間の中には必ず、善いことをしていこうとするものが内在してるんだから、それに従って自分から義務としてアプローチしないと、それ以外は全然ダメダメ、という考え方だったりするので、今の社会の○○のために頑張る、みたいな他律主義はことごとくNGとされてしまうんだな。

例えば、不正をしないのは、変な噂が立たないように、っていうのはもうダメなんだな。それは変な噂が立たないようにという考えに他律されているのであって、ウチから出てくる自律ではない、と。不正をしないのは、それが生きる上で守るべき義務だから、という考えでないと、何でもアカンという訳なんだ。出来るかいなそんなもん。

で、ハーバードの学生達も、「それじゃぁ、善い行いをしようと自分の行動を制限することで、自分の本心から必然の義務としてやってるんじゃなくて、ルールを守るために守る、みたいな本末転倒の他律に簡単に陥るんじゃねえの?」という議論を易々と導き出していますが、その辺はサンデル教授も、「いや、カントは、他の人に迷惑かける気が無ければそれでいいのよ」みたいな回答をしているし、そりゃほんとなのかねぇと疑ってしまうわけであります。だいたい、人間の中の規範意識が全員共通で等しく持っているものだという前提からスタートしてしまっている以上、何を反論しても無駄のような気がしますが。

これもなぁ。文化というフィルターや、宗教というフィルターを通しちまえば、アウトプットなんていかようにも変わっちゃうんだよな。考えようによっちゃあ、アウトプットの形は違っていても、中身のハートは共通だ、みたいなことを言ってしまえば終わってしまうんだけど、その辺の「添加物」「調味料」みたいなモノをすべて取っ払って、素材だけの味についてアプローチするための哲学的思考って、出来るようでやっぱり出来ねえなぁというのが正直なところであります。カレーライスになっちゃった状態で、ドロドロに溶けちゃったタマネギの本質を見極めよ!みたいな。まぁ、重要ですけどね…。

とまぁ、いろんなコトを考えながら読んでたら、夜9時から夜中1時過ぎまでゆっくり読んでしまったわけで、そこからなんか頭が冴えちゃって、続けてジオブリーダーズの最終巻読んだらシメが心にスッキリ来ず、続けて新書いくつか読んだりしてその後に結局この感想をタイプし始めたら、なんと朝6時手前になっちゃったんでアワアワワしている所なんですが。どうしようかなぁ。今日仕事だしなぁ。ちょっと寝るか。

っていう、そんな感想。汗



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